コラム

ホームコラムメタバースにいま足りないもの ―「メタコミュニケーション®」の実現のために―(後編)

メタバースにいま足りないもの ―「メタコミュニケーション®」の実現のために―(後編)

2023年11月09日

本コラムでは、メタバースの普及の次の一手となる可能性のある「Spatial Computing」について考察している。前編では、メタバースの次のあり方について「Spatial Computing」というApple社の視線と、「失われたWell-beingを取り戻す」というRidgelinezの視線を取り上げ、考察してきた。終結部では「なぜ『コンピュータの中に構築された3次元の仮想空間で、専用のゴーグルやアバターを使って接続する場』が存在するだけでは、メタバースたり得ないのか」という「問い」を提示した。そして認知神経科学を専門とする東京大学准教授である渡辺正峰(まさたか)氏の用いる、「感覚意識体験(クオリア)」という言葉に「問い」を紐解くヒントがあるのではないかという着眼を示した。
後編では、この「感覚意識体験(クオリア)」をキーワードに、メタバースが予測された未来に近づいていくために問うべき「論点」を提示する。

 

目次

    1. 認知神経科学者、東京大学准教授 渡辺正峰(まさたか)氏
    2. メタバースにいま足りないもの


前編では、主にメタバースの次のあり方について「Spatial Computing」というApple社の視線について考察してきた。
後編では、前編で提示した「失われたWell-beingを取り戻す」というRidgelinezの視線につき、「感覚意識体験(クオリア)」という言葉をキーワードに深掘りを進めていく。

 

1. 認知神経科学者、東京大学准教授 渡辺正峰(まさたか)氏

(1)渡辺氏の主張の概要

Ridgelinezは、認知神経科学を専門とする東京大学准教授、渡辺正峰(まさたか)氏との対話を重ねながら、メタバースのあるべき姿について模索している最中にある。

先日、実施された渡辺氏との対談内容の紹介に先立ち、渡辺氏の著書(※1)から、氏の主張の概要を抜粋で紹介する。

 

<我思う、ゆえに我あり>

たった今、あなたが確認した周りのもの、すなわち人や環境は現に存在しているのだろうか。
究極的には何もかもが不確かな中で、1つだけ確かなことがある。それは私自身の存在だ。身体のことではない。

近代哲学の父ルネ・デカルト(1596-1650)の『我思う、ゆえに我あり』の意図はまさにここにあった。
デカルトは真理を追求するべく、すべてを疑うことから始めた。身の回りのすべてを疑いのふるいに掛けたとき、真理だけが論理的に否定できないものとして最後に残るとの信念からだ。

覚醒しているように思えても、覚醒しているとの保証はない。
様々な知識や常識にしても、自身の感覚さえ信じられなければ、すべては砂上の楼閣となる。 
こうして、デカルトは疑わしきものを1つずつ排除していった。すると最後に、どうしても排除できないものが1つ残った。
それは、まさにその瞬間、すべてを排除しようと努めていたデカルト自身の思考、すなわち意識である。

 

<意識を極限まで還元したもの=クオリア>

意識の仕組みを紐解くために、まずは極限までにこれを還元しておくべきだろう。
ルールが定められた中での問題解決能力では、多くの分野でコンピュータが人を凌駕してしまっている。
一方、コンピュータが人間には到底及ばないと考えられてきた画像認識のような分野でも、だいぶ雲行きが怪しくなってきた。

このような時代にあって、コンピュータにはその片鱗すら実装されていないもの、科学者や哲学者によっては、未来永劫、実装されないだろうと言うものがある。それは、モノを見る、音を聴く、手で触れるなどの感覚意識体験、いわゆる「クオリア」だ。

 

<視覚世界は虚構の世界>

感覚意識体験(クオリア)が、私たちにとって当然のものであるがゆえに、それが意識を持つ者だけの特権だという実感がなかなか湧かないかもしれない。
それを理解するには、ある種の発想の転換を必要とする。そのきっかけとなり得るのは、私たちの見ている世界が、実際の世界とは似ても似つかないということを知ることだ。

私たちは、世界そのものを見ているわけではない。私たちが見ているように感じるのは、眼球からの視覚情報をもとに、脳が都合よく解釈し、勝手に創り出した世界だ。

眼球が三次元世界をスキャンして、世界そのものを直接見ていると誤解しがちだが、決してそうではない。
あくまで脳が、2つの眼球から得た2組の視覚情報を再構成し、それらしく「我」に見せているに過ぎない。
ただ、それらしく見せられた世界の出来があまりに良いために、かえってそのことに気づきにくいのかもしれない。

 

<夢を見ている間の感覚意識体験は間違いなく脳の創りもの>

気づきのきっかけとして、より身近な例を挙げるなら、睡眠中の夢も立派な感覚意識体験(クオリア)である。
感覚意識体験の質だけを見れば、覚醒中と何ら遜色ないレベルに達するとの報告もあるくらいだ。 

ここでのポイントは、睡眠中の脳が、外界や身体から完全に遮断されることだ。

自らがベッドに横たわる現実から、全く乖離した形で現れる夢世界は、紛れもなく脳が創り出したものだ。

 

<クオリアは意識を持つ者だけの特権>

クオリアは意識を持つ者だけの特権であり、意識の本質である。 
意識を専門にする研究者は、ほぼ例外なく、意識の難しさのすべてがクオリアに集約されていることに賛同している。

ちなみにクオリアは五感に限られたものではない。
ほかにも、思考の感覚意識体験、記憶の想起の感覚意識体験などがある。
チェスの例でいえば、電子頭脳が人間を凌駕したとはいえ、人が長考するときに頭が研ぎ澄まされるような「あの感じ」、妙手が閃いた刹那の「あの感じ」を味わうことはないだろう。
画像認識についても、顔を見て、なかなか名前が思い出せず、喉元まで出かかったときの「あの感じ」を体験することもない。

「あの感じ」はすべてクオリアだ。

 

<脳の中の仮想現実(バーチャル・リアリティ)>

夢を見ている最中の脳は、環境や身体からほぼ完全に遮断されている。
私たちが感じる三次元的な広がりをもつ夢世界は、ベッドに横たわる現実から離れ、脳がゼロから創り出したものだ。

夢の中の私たちは、視線を動かすこと、身体を動かすこと、そして、自らの体の重みを感じることさえある。
さらに、夢の中には他者が存在し、夢の中の自身に語りかけてくることもしばしばだ。
そのようなとき、夢の中の自身は、夢の中の他者の意図を一生懸命推察したりもする。
他者の発したセリフが、自身の脳によって創り出されたものであるにもかかわらずだ。

すなわち、私たちの夢は、環境の物理法則だけでなく、自身の運動指令に応える身体像、そして独立した意思を持つ他人までをも完全に再現していることになる。

映画「マトリックス」では、人々の脳が、仮想現実を生む巨大なコンピュータに繁属(けいぞく)され、感覚入力と運動出力を完全に代行されながら、そのことに気づくことなく日常生活を送る姿が描かれている。
夢を見る私たちは、あたかも、自身の脳が生む「マトリックス」に自らが接続されているかのようだ。
まさに、脳が創り出した仮想現実(バーチャル・リアリティ)である。

【図1】感覚意識体験(クオリア)とは

同氏の主張の核は、以下の点にある。
「モノを見る、音を聴く、手で触れるなどの『感覚意識体験(クオリア)』こそ、意識を持つ者だけの特権である」
「我々の脳の中に広がる世界は、外界からの情報をもとに創られた仮想現実世界である」

 

(2)Ridgelinezとの対談と考察

続いて渡辺氏とRidgelinezの対談と、対談を踏まえた考察についてご紹介する。
まず、対談では、
「(覚醒中に)世界を感じる仕組みは、実は『夢を見る仕組み』と変わらない」
「脳が元々持っている内なる仮想現実システムを通じ、『初めての状況』にもフレキシブルに対応できる」
と強調されていた。

 

「(覚醒中に)世界を感じる仕組み」は、実は「夢を見る仕組み」と変わらない

Ridgelinez:そもそも、どのようにしたら、脳を錯覚させられるようになるのでしょうか?例えば、視覚を使わずに、あたかも物体があると錯覚させることができるようになるのでしょうか?そして、人間の意識と結びつけることは可能でしょうか?

渡辺氏:(人間が寝ている時にみる)「夢」というのは、ある意味、究極の仮想現実。莫大な脳の処理を要する。僕が注視している、スウェーデンのSkövde(スケーヴデ)大学で認知神経科学の教授を務めるAntti Revonsuo(アンティ・レヴォンスオ)氏は、「大規模な脳の処理システムは、あの寝ている最中のエンターテインメントのために作られたわけではない」と主張している。

外界から遮断されているにもかかわらず、夢では全く異なる三次元世界が現れ、その中で会話することができる。ものが落下して、他者が出てきて、他者が自分に話しかけたりしますよね。それに対して「おう、お前何やっているんだ?」みたいに会話をするわけですね。

よく考えると、視覚や聴覚等の全部、しかも自分の体性感覚も含めて、ある意味、完全に没入している(フルイマーシブ)仮想現実。でもシナリオがきちんとしていて。しかも、その先ほどの第三者の他者は、本当は自分の脳がセリフを喋っているのに、自分の脳が言わせていると分からない感じですね。

では、なぜ夢は存在するのか? Revonsuo氏が提案する一番のポイントは、覚醒中に僕たちが感じているこの世界は、正にその夢を見る仕組みをそのまま使っているということです。三次元世界を感じられるように、その仮想現実が僕たちの覚醒中は外界と五感を通して同期をとっている。その仕組みがあるからこそ、副産物として夢をみているのだと彼は述べています。

つまり、ある意味、その脳が元々持っている内なる仮想現実システムにきっかけを与えて、また幻覚を見せるとか、夢を見させるとかいったことができれば、すごくリアルに感じることができるわけです。

Ridgelinez:「脳が元々持っている内なる仮想現実システムにきっかけを与える」という発想はありませんでした。確かに「夢」の世界は、いろいろな制約が外れた想像力に溢れた世界ですね。

 

脳が元々持っている内なる仮想現実システムを通じ、「初めての状況」にもフレキシブルに対応できる

Ridgelinez:我々が『夢』として仮想現実を獲得する仕組みはどのようなものであったのでしょうか?また、なぜ我々人類は「夢」を獲得したのでしょうか?

渡辺氏:例えばコップというのは、飲料を飲める特性があります。我々は、このような特性を「個々の体験」ごと独立に獲得する。けれども、その全部を組み合わせた仮想現実を僕たちは作れる。「この体験については最近知りましたという状況」でも、過去に学習した個々の対象物等の特性を組み合わせて「仮想現実」をつくるわけですね。

この「仮想現実」が「リアルタイムで同期している仮想現実」だとする。「リアルタイムで同期している仮想現実」があると、何がいいかというと、全くの初めて遭遇するような状況に陥ったときにフレキシブルに対応できますね。例えば、トラが出現しました。トラが木を登れる。どう逃げるのか、とか。

だから、仮想現実を持っていることの良さというのは、「反実仮想」というか、ある時点から時間を進め、複数のシナリオを現実から離れて進めることができる。そのため、仮想現実の仕組みを持った動物と持っていない動物とでは、やっぱり持っている動物の方が圧倒的に有利ですよね。だんだんそういう仕組みが脳で獲得されてきた。それが生涯にわたる学習で働く。

Ridgelinez:「脳の機能に『仮想現実』が存在するため、複数のシナリオを現実から離れて進めることができた。そのため、人間は淘汰されずに今まで残ってきた」という視点が非常に興味深いです。複数のシナリオを現実から離れて進められる点は、AIが広がりつつある今の時代の流れでも、AIに代替されない機能なのではないかと思われます。

【図2】認知神経科学者、渡辺正峰氏の主張のまとめ

対談からの示唆は、大きく2点ある。

前述の対談の後段で触れられた「脳の機能に『仮想現実』が存在するため、複数のシナリオを現実から離れて進めることができた。そのため、人間は淘汰されずに今まで残ってきた」という点は、「メタバース」の存在が実は「人間らしい」ものであることを意味している。こちらが1点目の示唆である。

Ridgelinezでは「遠く離れている空間とつながっている感じがしたら、それはもうメタバースです」と、「遠く離れた空間とのつながり」のような、「離れた」や「距離のある」といったものとの「つながり」から、ユーザー側の感覚意識体験(クオリア)を呼び覚ますことを、メタバースの要件としている。広義に捉えると、「複数のシナリオ」と言及された、脳の機能によって生まれた「現実とは別のシナリオ」もメタバースの内に含まれる。

そして前段で触れられた「脳が元々持っている内なる仮想現実システムにきっかけを与えて、また幻覚を見せるとか、夢を見させるとかいったことができれば、すごくリアルに感じることができる」という点は、Ridgelinezの捉える「メタバース」に近づく道を照らしている。こちらが2点目の示唆である。

メタバースを介して脳が持つ仮想現実に刺激を与え、「感覚意識体験(クオリア)」を呼び覚ますことができれば、すなわち「失われたウェルビーイングを取り戻す」ことになるのではないか。そして「取り戻すべき感覚意識体験(クオリア)は何か」こそ、メタバースにいま足りないもの、メタバース普及に向けて捉えるべき、「真の『論点』」と言えるのではないか。

例えば、前編の3(1)で触れた「寝たきりの生活を余儀なくされた人も、メタバース上で大自然の空気を体感できる」など、感覚意識体験(クオリア)を呼び覚ますコミュニケーションを実現するEnablerこそがメタバースであると、Ridgelinezは考えている。

(※1)渡辺正峰「脳の意識 機械の意識 脳神経科学の挑戦」 (中公新書)

【図3】渡辺先生との対談からの示唆(1点目)

【図4】渡辺先生との対談からの示唆(2点目)

 

2. メタバースにいま足りないもの

本コラムでは、メタバースの次のあり方について「Spatial Computing」というApple社の視線と、「失われたWell-beingを取り戻す」というRidgelinezの視線を取り上げ、考察してきた。

AppleはSpatial Computingをもって「現実空間におけるバリアフリー」を実現しようとする動きを見せる一方、我々Ridgelinezは、いわば感覚意識体験(クオリア)をもって「仮想空間を通じたバリアフリー」を実現するメタコミュニケーション®に着眼している。

メタバースを、単に「現実世界を再現する場所」と捉えるのではなく、感覚意識体験(クオリア)も含めた、つまり体験や感情など非言語コミュニケーションも含めたコミュニケーションによって「想い・感情・認識」を共有する場と捉え直していくべきではないないだろうか。

【図5】メタコミュニケーションのイメージ

メタバースにいま足りないものは、「失われた、取り戻すべきウェルビーイングは何か」、すなわち「失われた、感覚意識体験(クオリア)は何か」を論点として問う姿勢である。それは例えば、遠く離れてしまった家族にとっては、一堂に会する経験かもしれない。体の衰えた方にとっては、見知らぬ街を冒険することかもしれない。子どもやペットに手を引かれ、川沿いを散歩することかもしれない。仲間と声を合わせ、応援することなのかもしれない。

Ridgelinezは脳科学、データアナリティクス、ブロックチェーン、空間コンピューティング、現実空間/バーチャル空間におけるコミュニケーションスペースデザインなどを適宜組み合わせることによって、「情報」の送受信だけでなく、相手の認識や感情まで共有する「メタコミュニケーション®」が可能になると考えている。

Ridgelinezの「メタコミュニケーション®サービス」では、「メタバース」の活用に関する実践的アプローチを提供している。人起点の行動変容と価値観共有を2軸に、バーチャル空間と現実空間を人起点でつないでいる。メタバースを、貴社/社会にとって「不可欠な存在」にするため、「失われた、取り戻すべきウェルビーイング/感覚意識体験(クオリア)は何か」、「どのように取り戻すか」の突破口を探るため、ぜひ議論させていただきたい。

【図6】メタコミュニケーションサービス

 

執筆者

  • 遠藤 泰治Manager

※所属・役職は掲載時点のものです。

 

コラムシリーズ:メタバースにいま足りないもの ―「メタコミュニケーション®」の実現のために―